自家中毒の金魚

私は自分を保つのがとても苦手。

やりたくない事は極力逃げたいし後回しにできることは絶対後回しにしたい。

お風呂も嫌い。歯を磨くのも、除毛するのも、髪の毛を綺麗にしていることもやりたくない。

かといって美容院も極力行きたくないので髪が伸びていく。

ケアをしないと、心も身体も荒れる。

でも本当はやりたくない。

かといってそんな自分を許せない。愛せない。

だから仕方なくそれらを頑張って行っている。

自分を許したいのではなくて、愛されたいがゆえの努力なのかもしれない。

ところで金魚は、なんの生産性もない魚だ。

食べられもしないただの観賞魚

岡本かの子は「金魚繚乱」にて、このように綴っていた。

「幾分の変遷をたった一つの美で切り抜け、どうにかこうにか自己完成に近づいた。

これを想うに、人が金魚を作っていくのではない。

金魚自身の目的こそが、人間の美に惹かれるという、1番弱い本能を利用すること。

そして目的のコースを進めつつあるように感じられる」と。

金魚は自家中毒を起こす。

自分で自分の水槽を汚して、そして死ぬ。

私のようだと思った。

この中に空いた穴は金魚鉢ほど小さくはないが。

壊れたバケツ程度だろうか。

穴の空いたバケツの底が、乾かない程度の最低限の潤いでもいい。

それがなければこの汚い部屋の中から1歩も動けなくなって、やがて死んでしまう。

乾いても汚れても、結局死んでしまうのだ。

そして、実は食べることも好きではない。

口に入れてものを噛んで、胃に流すまでが面倒だから。

でも美味しいものが好きだ。

なによりセックスが好きだ。

「食欲旺盛な人は性欲旺盛」らしい。

しかし「セックスは小さな死」だという話を聞いたことがある。

自分を殺して人に成り代わりたい、貴方になりたいというのが究極の愛らしい。

では私は「食べる」という生に結びつく行為をしながら、小さい死を求めているのか?

矛盾しているのが人間なのだろうか。

故に私は金魚ではないのだろうか。

恋人と居る時、私は「普通」でいられる気がする。

過剰でも異常でもなくて、普通。

それはとても難しい。

美しくいるということ、愛されるということ、愛するということ。

そのどれもがあまりに難しくて、全く持って普通ではない。

でも当たり前。当然ではないのに。

これを考えていたらふと、食べられたいのかもしれないと思った。

食べられもしないただの観賞魚に、憧れた癖に。

食べてもらえないので沢山食べる。

愛して欲しいので沢山愛したい。

褒めてもらいたい。

抱きしめて欲しい。

永遠もずっともいらないけど、できるだけたくさんの時間を共有していたい。

閉じ込めて欲しい。

閉じ込めたい。

じゃあどこに?誰を?そんな具体的な話ではない。

ただ、自分だけのものと言って欲しい。

まったく、そんなに多くを求めているのかと呆れてしまう。

だからこんなに太ってしまったのだ。

甘いものの過剰欲求と、過剰摂取で、満たされる方の穴を埋めているから。

穴を塞ぐ必要は無い。そんなものは捨ててしまえばいい。

でも出来ない。

一瞬満たされた時の幸福を知っているから。

きっと一生求め続けると思う。

美しいにしがみついたまま、離れることが出来ないから。

それが一番美しくないということ、人間の1番弱い本能だということを、知っているのに。